日本で最初に稼働した電子計算機FUJIC

コメント(全9件)
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ノーネームしたん ― 2009-07-09 22:01
>その側方支援を行なう組織が後藤研究室です
それなら、Haniwaさんは東京湾に、戦艦大和、武蔵を引き連れて、94式40サンチ砲を・・・・・・、後方支援(後弾)でも・・・(嘘)、リバースリングはたまに使いますが、やはり絞りリング付きレンズは、ありがたいです。
Haniwa ― 2009-07-10 09:34
ノーネームしたん様
私が後方支援に回ると、「後ろからタマが飛んでくる」ことになるかも(笑)。

絞りリングのないレンズは「家電レンズ」と呼ぶことにしますか。なんか家電屋さんに悪いような気もしますが(笑)。
無名戦士 ― 2010-12-08 13:33
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戦時中の日本の電子計算機開発について、陸軍技研本部の指揮で技研本部国分寺支所、陸軍経理学校、陸軍翻訳班、陸軍地理調査所、日本無線によって進められ、サブミニ真空管1900本で冷蔵庫大の大きさで30台ほど作られ稼働していた。戦後米軍はそれらの廃棄された残骸を収集するため、それらの場所を掘り返し、小学校のグラウンドまで掘っていました。日本無線系の技術者が参加して富士フィルムのハニワが作られたと聞いています。実用的には日本が進んでいたそうで、平均故障時間900時間以上を達成、ENIACの4時間(実用困難)に比べ実用段階にあった。ともと、郵政省電波研究所の方や、それに参加していた元陸軍軍人の方や経理学校OBの方から聞きました。戦時中の隠された秘密です。同様にトランジスターの開発も東北大学と国分寺支所、日本無線で行われ硬(甲)水晶とよばれ、接合型FETトランジスターだったそうです。接触型Geトランジスターはドイツで作られ、米国のショックレーはそれを理論的に発表しただけ、戦前はリレー式計算機を陸軍は昭和8年ごろから13年ごろまで行いその後真空管式に、ドイツは放電管を使っていたそうです。日本のは計算方式は6ビット×2と言う独特のものだったそうです。情報まで。
Haniwa ― 2010-12-08 17:08
無名戦士様
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貴重な情報ありがとうございました。戦争が拡大しなかったら、日本の技術はもっともっと進んでいたかもしれないんですね。

これだけ真空管がたくさんあったら1本切れたら探すのに困りそうだと思ったのですが、真空管って切れたりすると黒ずんだり不透明になったりするので、意外と故障箇所を見つけやすいかもしれないと思ったりしました。

国立科学博物館はまた行きたいですね。これ、親戚のこどもなどを連れて行くと、興味ある子とない子にはっきりと分かれますね。なんとか興味持たせようとしています(笑)。サブリミナルのようにじんわりと効いてくればいいのですが(笑)。夜寝付けないときにFUJIC計算機がフラッシュバックするとか(笑)。
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