ITmediaデジカメプラスに写真のデジタル化で失ったもの(山形豪・自然写真撮影紀)という記事が載っている。
しかし、大きな変革がもたらすのは必ずしもありがたいものばかりではない。生き馬の目を抜くがごときカメラメーカー同士の生存競争は、プロダクト・ライフサイクルの極端な短縮という副産物を生み出した。デジタル一眼レフカメラも、パソコンやケータイ同様、矢継ぎ早に新モデルが登場する。ひとつのカメラを使い倒す前に、より高性能の機種が登場し買い替えを余儀なくされる状況は、決して好ましいものではない。
かく言う私も、2003年にデジタルで撮影を始めて以来、ニコン「D100」「D2H」「D200」「D300」と乗り換え、現在では「D700」と「D7000」を使用している。ひとつ売り払っては次を買いといった具合で、後生大事にカメラを手元に置いておく余裕もない。性能の向上は朗報だが、回転が速すぎると感じているのは私だけではあるまい。
経済的負担以外にも、最近のデジタル一眼レフカメラには釈然としないものを感じる。デジタルに移行する前は、「F3T」や「F4S」「F5」といった機種を何年にも渡り愛用していた。また、写真のイロハを教えてくれたのは父から譲り受けた「ニコンF」だ。使い続けるうちに手になじんでいったそれらのカメラには今でも愛着があり、もはや仕事の撮影で使うことはないものの、たまにキャビネットから取り出して遊んでいる。
だよねぇ。GR DIGITALなどはサイクルを長くすると公言していても6年で4代目だものねぇ。デジタル一眼レフもコンパクトデジタルカメラに比べれば少しサイクルが長いが、それでも今回電池や充電器やバッテリーグリップなどが在庫限りや出荷終了になってしまった。さらにニコンの場合、古いレンズとの互換性がいつ切り捨てられるかはっきりしないから余計にむずむずする。新しい機種の新機能や性能向上に期待しつつも他方で互換性がなくされるんじゃないかと心配になる。非常に不安定な存在だ。
ところが、昨今のデジタルカメラには、そのような感情を抱かせる何かが足りない気がする。単なる製品の耐久性とは別次元の、デジタル特有のはかなさというか、長い年月の経過に耐え得るだけのDNAのようなものが備わっていないように思われてならないのだ。これはカメラだけでなく、写真そのもののあり方にも関係している。
写真がフィルムという物質的存在から、磁石を近付けただけで消え去ってしまう、もろいバイナリデータに変化した。いくら多重バックアップを取り、クラウドにデータを乗っけてみたところで、結局のところ実体のない1と0の集合でしかない。その電子情報を作り出すのがデジカメだ。つまりカメラが光のA/D変換を行う電子機器になってしまったのだ。そこにはフィルムカメラの持つ、人間と機械、そして写真との物理的なつながりが欠落している。私がデジタルカメラにいまいち愛着を抱ききれない理由はその辺りにあるのかもしれない。
フィルムで写真を撮った経験のない方はこのような悩みとは無縁であろう。昭和時代に生まれたアナログ人間による、他愛(たあい)もないぼやきであることは重々承知の上での発言であることをご了承いただければ幸いである。
データの儚さもあるけれども、私がデジタル一眼レフに愛着を感じないのは、ピントが見えないファインダーだからだ。チープなF-501でもちゃんとピントが見えたから愛着があった。DX機の絶望的なファインダーで毎回ストレスが溜まるのに愛着が持てるわけがない。以前から書いているが、ニコンの廉価機ではAFが効かないAFレンズがたくさんある。一眼レフなんだからMFでピントを合わせればいいのだが、そのピントが分からないファインダーだ。D300はAi連動もするが、MFの広角レンズを使うのは非常にストレスが溜まる。ピントが分かりにくいのでぱっと撮れないのだ。
セコメントをする